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歴史的建造物・遺跡
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天草写真集
歴史的建造物・遺跡
写真一覧
南蛮樹(なぎの木)
南蛮樹と呼ばれているこの木は、原産は東南アジアと言われています。南蛮寺が建てられていた頃にキリスト教の使者が東南アジアを経由して日本に来る際持ち込んで植えられたものだと言われており、樹齢約400年と言われている大木です。
正覚寺(しょうかくじ)
かつて天草に約30近くあった南蛮寺跡。1589年に建立された当寺は最盛期には信徒3,500人を数えました。現在もキリシタン史跡巡りの人々が訪れます。
栖本諏訪神社
かつて天草に約30近くあった南蛮寺跡。1589年に建立された当寺は最盛期には信徒3,500人を数えました。現在もキリシタン史跡巡りの人々が訪れます。
いげ神社
栖本干拓の潮止めの際、人柱を立て、その霊を祀り「年神社」と拝むようになったといわれています。神社の周囲に「いげ」が栄えたことから「いげ神様(いげ神社)」と呼ばれるようになりました。
円性寺
天草四ヶ本寺の一つで、1637年、天草島原の乱後、湯船原城址に建立。江戸時代末期までキリシタン信者の改宗取締りや戸籍調査等行政的性格を併せ持つ寺として、一般に宗教行政寺とも呼ばれました。
遣迎寺
遣迎寺は、倉岳町宮田にある浄土宗のお寺。宮田港と不知火海を見下ろすひっそりとした古寺です。
倉岳神社
天草最高峰倉岳の頂上にある倉岳神社。船の形をした石の彫り物がある珍しい神社で、多くの人々に信仰されています。
棚底の石垣
倉岳町棚底の民家周辺に見られる石垣。倉岳おろしといわれる北風を防ぐために作られたものらしい。高さ3メートル以上の立派なものも見られ、石垣散策も楽しめます。
江岸寺
天草の乱後、寛永22年(1645)3代将軍家光の代にキリスト教撲滅のために建立されたもの。山門や本堂はほとんどケヤキが使用され、楼門はまれに見る立派な建物です。
弁天島(恐竜足跡)
弁天島の桟橋から海岸線を少し行ったところに、恐竜の足跡があります。体長5m程度の獣脚類(肉食恐竜)の右足のものと考えられています。
アンモナイト館
御所浦町の牧島にある小さくて珍しい形をした建物がアンモナイト館。この中にはアンモナイト(直径約60cm)が発見当時の姿のまま眠っています。
恐竜(ニガキ公園鉄の恐竜)
数多くの恐竜化石が発掘されている御所浦町。町の玄関口の港や公園など、町中に恐竜のモニュメントが飾られています。
明徳寺
天草・島原の乱後の人心平定とキリスト教からの改宗を目的として建立された曹洞宗の禅寺。開山は中華珪法。山門には仏陀の正法をひろめ耶蘇の邪宗を破るという意味の額が掲げられ、天草キリシタンの歴史を物語っています。
諏訪神社
創立は弘安6年(1283年)。由来は、2度にわたる「元冦」の折、本渡城主であった天草大夫大蔵太子の女傑が、水軍を率いて出陣し、その時諏訪大明神の御加護により風神が守ってくれたので、その神恩に感謝し、天草氏領土内の総鎮守として、信州諏訪の御本社より御分霊を奉じたのが同神社の創始とされている。
亀川古寺古墳群
五輪塔6基、宝筐印塔1基があり、古寺と呼ばれる畑地に散在していたものをここに移し、組み立てたものです。鎌倉時代に天草氏の菩提寺である来迎寺が建てられていましたが正和2年(1313)に領地で争っていた志岐氏の本戸侵入のおり焼き払われ廃寺となり、現在は古寺という地名と7基の古塔だけが残っています。
東向寺
天領時代、代官鈴木重成公が建立した四ヶ本寺随一の名刹である曹洞宗の寺。県内有数の大きさを誇ります。徳川将軍家11代までの位牌が安置され、また、建立当時に描かれた約190枚の美しい天井画も見物です。ひな人形展や大晦日には、これらが一般開放され、多くの人で賑わいます。
御領神社二の鳥居
長岡興就が小前百姓の強い要望を躰し、質地請返しのため天草百姓相続方仕法の再公布願って駕篭訴に及んだのが弘化4年(1847)。それより7年前の天保11年(1840)に建立された鳥居がこれで、柱には願成就、長岡五郎三郎源興就と刻まれており、悲願の程が伺えます。
石仏群
この地は古くから弘法大師の聖地として崇められており、江戸期から明治にかけて刻まれた石仏が百数体安置されています。大正13年に大師堂と修業大師像が建立されてから近隣はもとより島内外からの参詣者が絶えません。
ペーさんの墓
五和町には、約千基のキリシタン墓碑が確認されていますが、このペーさんが墓は「ティー」が墓ともいい、独立した墓所としてほぼ当時の原型を留めています。「ぺー」とは洗礼名で、神父のことを指しています。
衆寮堂
修行僧の寮として使われていた衆寮堂を明治9年の御領小学校の開校時に村が校舎として借り受けました。当時のまま保存されており、国内でも数少ないものと言われています。
芳證寺
開基は、天草の最初の代官鈴木重成が両親の菩提寺として正保2年に建立しました。
楊貴妃像
新和町小宮地宮地浦に「楊貴妃」という地名があり、伝説が残っている。宮地浦ではこれを活性化につなげようと、平成18年3月に銅像を建立した。美人のシンボルとして「撫でたら美人になる」といわれている。
眼鏡橋(久玉)
国道266号線沿いの久玉小学校横にある無量寺山門前の吉辺川に架かる小さな石橋で、久玉の無量寺橋と呼ばれ、地域の人たちに現在も利用されている。
大蛇池(竜王宮)
その昔、この魚貫崎の池に大蛇が住んでいたという逸話があり、竜王宮はその大蛇を神として祀ったものです。
鳥帽子抗跡(天附)
烏帽子坑は、明治30年頃に創業された海底炭坑の抗口です。海上にぽっかりと開いた抗口は大変珍しいもので、背後の防壁にも守られ、これまで100有余年、自然災害にも負けずその勇姿を今に留めてています。
崇圓寺
天草5人衆(戦国時代の末頃、天草島に志岐氏・天草氏・栖本氏・大矢野氏・上津浦氏)の一人、天草氏の居城であった河内浦城。その城跡に、天草・島原の乱後に天草四ヶ本寺のひとつとして建設されました。
轟橋
一町田今田川に架かる『轟橋』は、石工「江嵜仁吉」氏の手で大正3年3月に架けられました。この橋は、砂岩石積アーチ式で、長さ12.5メートル、幅約5メートル、高さ約6メートル。平成9年2月、新しい『轟橋』が完成し、現在は静かにその姿を残しています。
吉井勇歌碑
大天主堂の前には五足の靴一行の一人、吉井勇の全国で数えて第1及び第100番目の歌碑があります。「白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿」は、有名な句。
鈴木神社
天草島原乱後の天草復興に力を注いだ初代代官鈴木重成公、兄の鈴木正三和尚、息子の二代目代官鈴木重辰公を祀る神社です。
楠浦の眼鏡橋
県指定重要文化財。下浦石製の石橋で、アーチ型石橋としては天草最古のものです。
異人地蔵
天草・島原の乱後の人心平定とキリスト教からの改宗を目的として建立された曹洞宗の禅寺、明徳寺。石段の入口に立つ異人地蔵は彫りが深く、文字通り異人の顔をしています。
殉教戦千人塚
1637年、天草四郎の率いる7,000人のキリシタン勢は、唐津軍25,000人と本渡において激突しました。この戦で、大将三宅藤兵衛を失った唐津勢は富岡へ敗走。河原に残った唐津・四郎両軍の無数の遺骸を、里人たちは市内数カ所に地蔵を建て、千人塚と称し、祀りました。これらの塚を合祀したのがこの殉教千人塚です。
天草四郎像(天草キリシタン館)
天草・島原の乱を戦った殉教者が祭られている「天草キリシタン館」には、初代館長である作家の亀井勇氏が作成した3体の四郎像が展示されています。
大江天主堂
50年にわたって住民を支えたガルニエ神父と地元住民が協力して建造した聖堂。ロマネスク様式の建物で、礼拝堂では貴重な聖画を見ることができます。
ガルニエ神父
昭和8年、天草に生涯を捧げたガルニエ神父が私財を投じ、大江天主堂を建立しました。
﨑津天主堂
昭和9年にハルブ神父によって建設された、ゴシック様式の畳敷きの教会。﨑津港を見守るように佇んでいて、別名「海の天主堂」と呼ばれています。
海の星なる聖母
海に向かって佇むマリア像は、﨑津一帯のシンボルです。船人や漁民の海の道しるべになるようにと、地元の人々の協力のもと建てられました。