一号橋
連続トラス形式
- 連続トラス橋(502m)
- 中央径間300mは連続トラスとして開通当時世界第1位
- 【MAP No.1】
天草五橋は、九州本土と天草をつなぐ五つの橋で、に開通しました。天草パールラインとも呼ばれており、三角から大矢野島・永浦島・大池島・前島を経て天草上島までつながっています。
国道266号線上にあり、総延長は17.4㎞。1号橋から5号橋まであり、現在は無料ですが、完成した当時は通行料がかかっていました。当時の通行料が普通乗用車で800円、軽自動車で70円であり、12歳以上の人が通行する場合も20円がかかっていました。30年で償還する予定でしたが、わずか10年(昭和50年)で無料開放されています。平日で16,000〜17,000台の通行量があったそうです。無料開放されるまでの期間をみても天草五橋の重要性がわかりますね。
そして現在、新たに自動車専用の新天門橋が建設中で、度中に完成予定です。
連続トラス形式
ランガートラス形式
PCラーメン形式
PCラーメン形式
パイプアーチ形式
天草五橋を渡られたことがある方はおわかりかと思いますが、橋の手前に看板があり、そちらに橋の型式が記載されています。
ですが、専門的な用語で書かれていて、どういう意味なのかがわからない……ということはありませんか?
例えば3号橋、4号橋は「スパン中央にヒンジを有するラーメン橋」なのですが、「ラーメン?」と思われた方も少なくないはず。
今回は3号橋をピックアップして構造を解説していきます。
3号橋は「スパン中央にヒンジを有するラーメン橋」となっていますので、「橋脚と橋脚の間の中央部分にヒンジ(接合部)があり、基本的には橋脚と接合部が一体となった構造」ということです。
橋を支えている主となる部分がどこかで名前が変わることを踏まえて、他の橋の用語だけを解説しますと、1号橋の「トラス」は、三角形の組み合わせ、2号橋の「ランガー」はトラスをアーチで補完した構造ということです。
上天草を語る上で、なくてはならない存在の大澤会長は御年82歳。今回は、天草五橋に関する様々なエピソードをお聞きしました。
なんと、大澤会長は、五橋完成日()に免許を取得されたそう! この時代には、まだ免許を取る人も少なかったようで、会長は「五橋が開通したら、すぐ車に乗りたい!」との思いで早めに通い始めたとのこと。
……ですが、その想いが強い方は他にもいたようで、今では7分で行けるところを、開通当初は渋滞してしまい40分もかかってしまったとか。
「一番ありがたかったとは、息子が急病にかかったとき、橋のあったけん、命拾いしたっバイ」と語る会長。それまでは病院に行くにも船だったのですが、未熟児が生まれた場合など、船が欠航して病院に行けず、悲しい結果に終わることも多かったそう。こういった意味で、島民にとっては「命を繋ぐ橋」となったんでしょうね。
今や早朝に届くのが当たり前の新聞も、橋がかかる前は午前8時がやっとのこと。今では4〜5時とまだ、夢を見ているうちに届くのも、この橋のお陰。
当時、牛を前島(松島町)から伝馬船にのせて運ぶ際、波が高くて、船が揺れてしまい、牛が海に落ちたというハプニングも度々あったそう。五橋が完成したことで本当に助かっています。
天草五橋が完成したのは、熊本県議会において最初の提言がなされてから、なんと30年も経過してからのこと。ここまで強い意志を持って、実現に向けて尽力してもらったお陰で、今の私たちの安定した暮らしがあります。上天草市には、その栄光に感謝の意を込めた銅像が建てられ、また平成16年には、「夢の懸け橋 天草五橋の情熱をかけた男 森 慈秀」としてテレビ熊本で放映されました。
さらに、上天草観光ガイドの会、大澤会長を中心に企画・制作した紙芝居は、子供たちに天草五橋の歴史を伝える上での、貴重な資料として今でも使われています。
いよいよ今年、50周年を迎える天草五橋。こうした歴史を知った上で橋を渡ると、より一層奥深い、天草の魅力としてお楽しみいただけるはずです。
天草架橋が実現に向けて最初に現実味を帯び、しかも一本の橋ではなくて天草諸島を貫く五本の橋をつくろうという壮大な計画が持ち上がったのは、昭和28年(1953)のことです。そのとき、実現に向けて活躍した重要な人物は森国久(1912-1961)です。
昭和26年(1951)、森国久は天草郡樋島村の村長選に、村の若者たちの希望の星として出馬を請われ、当選した若い村長でした。全国の離島代表決起大会に乗り込み、「離島天草」の窮状を訴える熱弁をふるいました。その熱弁は聴衆の心を揺り動かし、森国久は全国の離島振興運動で頭角をあらわしていきます。また、離島振興法案の修正作業に主要メンバーとして参加し、まもなく念願の離島振興法が国会で成立しました。
まもなく森国久は離島振興対策審議会の委員に推され、離島振興予算の拡充に大きな役割を果たしました。また、会議への参加のほかに東京では天草架橋の建設をめぐる政府関係機関との交渉に力を発揮しました。
森国久自身は一足先にこの世を去りましたので、橋の姿を見届けることができませんでしたが、天草の人びとが互いに協力し懸命に努力した結果、昭和41年(1966)9月、ついに橋は完成しました。
大小約120の島々からなる天草。その島々は、多くの個性的な橋で繋がっています。石造り以外にも、思わず写真撮影したくなる橋など色々あるんです。
天草の上島と下島を結ぶ「天草瀬戸大橋」。1966年(今から49年前)に天草五橋が開通したことで、島民の生活は一変。とても便利になったけれど、それに伴って通行車両が日増しに増え、瀬戸を行き来する船の増加などで、交通は大渋滞。こういった交通量の激増とスピード化の要請にこたえて、瀬戸を大きくまたぐループ式高架橋が1974年に誕生したのです!
全長約700m、国道266号と国道324号との重用なのですが、船が下を通ることが出来るように、海面からの高さをとってあるため、こういった形になりました。
『瀬戸大橋を自転車や徒歩で渡るのがとても大変』という理由から、この橋は作られたそうです。ちょうど、瀬戸大橋が完成してから、4年後の1978年(今から38年前)のことでした。赤く塗装されていることから、通称「赤橋」として、天草島民からは親しまれています。
江戸時代以降に建造された石造桁橋では国内最大級、全国的にもまれな「多脚式」ということで、国指定重要文化財に指定されています。天草・島原の一揆で一揆勢と唐津藩の守備軍が死闘を展開した場所でもあります。石材は下浦石。
もともと染岳登山口にある無畏庵の参道としてかけられたもので、石材は下浦石。明治15年に再建。
アーチ型石橋としては天草最古のもので、県指定重要文化財に指定されています。石材は下浦石。に完成。
天草・島原の一揆(1637年)の後、天草民心の安定のため建立された石橋で、天草市指定文化財に指定。幕末頃に完成と推定されています。
天草市河浦町の今田川に架かる橋。に下浦石を使って建設され、現在の姿になったのは。石橋の下に降りるところがあり、下から見ると橋がとてもきれいに見えます。
亀川の支流・宇土川に架かる小さな石橋で、天草市指定文化財に指定されています。明治15年に完成。
太鼓型のめがね橋。に再建されたと言われていますが、架橋当時の姿で、自動車が通る現役橋。天草市指定文化財に指定されています。
天草の下浦町は県内でも有数の石材業が盛んな町。
天草島内の神社の鳥居や石橋の多くは、下浦石工が製作。
長崎のグラバー園の庭園やオランダ坂の石畳などには下浦石が用いられたほどなんです。
今回の取材を終えて、天草には約2,000余りの橋があることが分かりました。(熊本県や天草市調べ)
その中でも、当協会女性スタッフでミーティングを重ね、特に観光客の皆さんに観ていただきたい橋を勝手に(*^_^*)選ばせていただきました。
今回、掲載していない橋どれもこれも興味深いんですよ...だから、皆さんの気になる橋も探してみてくださいね。
そして、多くの橋で繋がっているからこそ、天草には気楽に行くことができて、島内の移動もスムーズにできるんですよ。
天草にいらっしゃる際は、『天草の橋』にも目を向けてみてくださいね(*^_^*)